○復路&補足編

 暑さと疲れのため、だらだらとしたペースで来た道を戻る。
輪行袋があれば電車で戻れるんだがなぁ...。

今回からは時系列を無視して、戻りの行程に従い新たな発見や
後日判明したことなどを含めて書いて行きたい。
 まず目指したのは、往路で華麗にスルーしてしまった旧松島駅。

今でこそ「どこが松島やねん!」と突っ込みたくなる場所だが、確かに松島町内だし
開業当時は松島自体がそれほど観光化されていなかったことを考えれば致し方あるまい。
建物は利府街道(県道仙台松島線)沿いにあり、割と特徴的な建物なので
見かけた人は多いのではないかと思う。
ちなみに弟はノーチェックだったらしい。
駅舎跡は松島町健康館として使用されている。
ちなみに軌道跡は当然建物の裏手だが、特に遺構はない。
まあ、道路から一段高い場所に建物があるので、ホームだった頃の情景が目に浮かばないでもない。
さて、先に松島海岸から遠いということを書いたが、実はこの駅前からは
観光のため松島海岸まで「松島鉄道」というのが走っていたのだ。
それについてはまた次回の講釈...ではなくいづれまた。

往路にこの近辺で発見した謎の石碑だが、画像から解読を試みた弟からメールが届いた。

>松永師団長書と書いてあるが明治40年(20年にも見えるが)だということであれば陸軍第2師団(
>仙台師団)の松永正敏師団長と思われるが

>結局わからん

要するにわからんと(笑)
これについては本気で調べるか情報を募らないと分からないかもね。

 淡々とチャリを漕ぐが、このあたりで弟が「利府 12Km」の看板を目撃。
流石に二人ともゲンナリする。
それでも漕がねば進まないのがチャリ。行きでチェック済みということもあり
もう橋の下を覗くこともせず、だらだらと漕ぎ続ける。
チサンカントリークラブ付近に至り日陰もなく暑さはピークを迎える。
と、道端に休んで行けと言わんばかりの木陰を発見。

行きは見過ごしていたが神社の入口らしい。
鳥居もあり、石碑が並んでいるが、建物自体はかなり軌道跡から離れた山沿いに見える。
休憩がてらぶらぶらと石碑を読んでみると、「日露戦争」の文字。
出征した人たちが生還を記念して神社に寄付を行ったようだ。
○× 何円 誰それ何円といった記述が見られる。
おそらくここに名前を連ねることが叶わなかった人たちも大勢いたのだろう...。
隣の石碑も見てみると!「汽車」の文字。おおっ。
当然漢文だが、これは比較的分かりやすいぞ。
要約するとこういうことのようだ。

汽車の飛び火で、神社が燃えちゃい立て直しました
誰某 何円 誰某何円....



むむむ。これは予想外の方向で、鉄道に関する遺構(といっても良いでしょう)が出て参りました。
別に山線の存在を疑っていたわけではないが、鉄道を取り巻く周辺の土地に根ざした記録
というのも、よりリアルに山線の存在を実感させられる。
飛び火で鉛線に火事という「話」は良く聞いていたが、やっぱりあったんだねぇ。
だから今の神社は軌道跡から遥か離れてるのかな?もしかして。

思わぬ発見にちょっと気を良くしてこの後は割と調子よくスタート地点まで戻った。
が、帰宅後レポートを書いている最中に、これまた往復で思いっきりスルーしてしまったポイントがあることが
弟のメールで発覚。

>見てて気付いたんだが俺らは「赤沼信号場」をすっとばしてるぞ!

あ!
俺そこ知っていながらスルーしてたわ...orz
松島海岸インター付近の今は児童公園になっているところと、レポートにも書いた三陸道と平行する広い砂利道。
単線だった山線で列車のコントロールと、入れ替えを行っていた施設だそうです。
いやーほらー、リストとか持って走ってるわけじゃないし−...。

結局当日はそんなことには全く気付かず
「俺さー、欲しい食虫植物があるんだけど帰りにD2寄っていい?」
「いいよぉ」
「今日の飯は俺がおごるぜ、好きなカップ麺買っていいよ!」

とかいう感じで、実家に帰還。カップラーメンでお開きとなったのでした。
 正直計画段階ではこれほど濃い企画になるとは思っても見なかったのだが
うれしい誤算であった。
 この山線跡は、仙台近郊でしかもどの遺構もアクセスが容易だという
実に恵まれた廃線跡であるといえる。
興味を持たれた方は、一カ所でも良いからちょっと寄り道して見ていただければと思う。
何せ、これらの遺構は今後、いや明日にでも姿を消す運命にあるのかもしれないのだから。
このレポートを読んで、実際に訪れてみようと思う方がいれば、幸いである。

おしまい